こんにちは、とびおば管理人です。
反抗期というと、子供が大人への成長の過程を歩むためのステップという印象ですね。
でも、「大人にも反抗期があっていいのでは?」 と私は感じます。
なぜ?かというと、私の場合は、上手く思春期の反抗期を乗り越えていない体感があるからです。
あなたは、大人になってから、思春期のような葛藤を感じたことはありませんか?
私は、ここ最近、反抗期なのかも?
と感じることがあります。
そう言われても??・・・・・・あなたは訳が分からないかもしれませんね。
今まで、「こうあるべき」という沢山の行動指針は、大人になって身につけました。
しかし、いい大人なのに、自分を抑えていると「なんで?」となってくる。
しかも、私の場合は、50代も半ばを過ぎてからです。
という事で、今日は、50代の心の中の、本音と建て前についてシェアします。
遠方の夫の親族の法要・妻が一緒に行くのは当然でしょうか?
今年は、子供の受験もあり、春に一度帰省して、墓参りや親族挨拶などを済ませました。
夏に夫の親族の法要があり、夫だけに行ってもらうことにしました。
葬儀ではないので、夫が代表で大丈夫だろうという、私の判断でした。
夫も了承して無事法要が終わって帰ってきました。
夫の話によると、他の親族は、あまり良い顔をしなかったようです。
仕事もせず、家にいる妻なら法事に来るべきだ、という認識なのではと感じました。
その場で、なんでかな~の雰囲気の中、「まあ、いいけど」とは言われたそうですが。
長男ですが、自宅はすでに処分しており、寺での法要でほとんど田舎の法要のように準備することはありません。
建前上は、長男の嫁はこうあるべきという世間一般の感覚なのでしょう。
一方、自分の親や親族の法事は一人で帰省します。
自分の家族には、なぜ夫が来ないのか?とは言われたことがありません。
しかし、今回は、自分の意思で決めたので、周りからすると、我儘に映るかもしれませんね。
私自身は正直に考え、行動して良かったなと感じています。
近隣に住んでいれば、まったく問題にもならない小さなことですね。(逆に近いなら行ってます)
親を始め親族も年を重ねているため、顔を出して欲しいという気持ちがあるのだと、私は解釈しました。
そうはいっても、私自身もできるだけ早く地元にUターンしたい気持ちがあり、もやもやしています。
人生、思い通りには行かないかもしれませんが、後悔がないようには行動していきたいものです。
家族の駅までの送迎は当然?
結婚してから、専業主婦の時も仕事をしているときも、夫が公共交通機関を使うときは、必ず車で送っていました。
地方の空港や都会の空港、JRなど、色々ですが
特に地方の場合は便数が少ないので、不便だからこそ「送るべきだ」と思っていました。
自分の場合は、たまに送ってもらうことはありましたが
電車やバスで行ける場合は1人で出かけています。
というよりも、夫は人に頼れる人なのですが
私は人に頼れない性質です。
なぜかと言うと、成長過程で人に頼ってはいけないと、無意識に自分に課しているようです。
頼むと、「人に迷惑をかけた。」「自分は能力がないな~」
歪んでいます、いびつな感情ですね。
人に頼んで「ありがとう」と感謝して、自分ができる事は最大限お手伝いする。というのが、本来の生き方だと。
若い時からの自分の心の考え癖のようです。
しかし、人に頼まれると断れない。
人に頼まれる=やるべきこと と考え行動
人に頼る=悪いこと だと認識してることに、40代から気づいています。
いつも仕事に行き始めると、人間関係で心が疲弊して、退職してきたからです。
頼れない性質が生まれた時期は、大人までの過程のどこかで、人に頼れない場面や経験があったのでしょう。
その時期は、ちょうど思春期頃だと感じています。
ダメを言われ続けると、自分は×の思考パターになります。
それで、今回の夫の駅までの送迎ですが、頼んできました。
私の本音は、自分で駅まで行ってほしい。
しかし、今まで、送らなければ、タクシーで往復する。過去がよみがえる。
その行動を見ると、「~すべきな私の赦せない気持ち」が出てきます。
そのため、家計の負担を軽減するという目的で
自分は送迎すると決めました。
ほとんど車は使用していない状態で、使っても週に一度あれば良い方です。
親の危篤とかの想定でしょうが、私自身は車は必要ないと考えています。
車を手放すことに、夫は猛反対です。
確かに不便な田舎なら、常に必要ですが、バスや電車がある場所では、贅沢品のように感じてしまう。
自分と周囲の人との認識のズレ
最近思うのは、家族であっても、話の内容の理解にズレがあることです。
先日の送迎の時も、夫が「8時に送ってほしい」
と言われたので、8時に自宅を出たら良いと解釈しましたが、
実際は、8時までに送ってほしい。という意図だったようです。
本人は言ったつもりでも、きちんと「までに」と付け加えないと、本人の列車の時間まで伝えられていないので、わかりません。
結局、8時20分に到着しました。
26年一緒に住んでいても、この認識のズレです。
相手は変えられないので、そうだったのね~と流せなければ、ぶつかるばかり。
送る時も、間に合わないかもしれないと本人が焦って、怒って駅に向かいましたが、列車の時間を聞いてみると間に合う予想でした。
それでも、本人は列車が定時刻に発車できないかもと言い出します。
本心は、「そう思うなら、自分でもっと早くにバスに乗っていけばいいじゃないか」とよぎります。
家族であっても認識の違いは平行線です。そういう考えなんだと考えるのが得策かもしれません。
そして、人間いつお別れになるか分からない。
と思い直して。相手の怒りにつられず、
「間に合うといいね、気を付けて」と声を掛けました。
私なりの後悔のしない為の行動です。(自分の為)
結局、台風の影響か予定の列車が5分遅れて、余裕で届いたようです。
帰りも新幹線が予定より遅くなりました。
買い物の用事を済ませて、駅へ迎えの到着も遅れ。
本人は「え~なんで!買い物はそっちの都合だ」と意見しましたが、負けずに、「遅くなるけど駅で待って」と反論。
今回は、やりたくないという気持ちでしたが、結局迎えに行ったけれども、それは自分の意思で決めてから行く。
という自分の気持ちを考えで行動しました。
他人軸ではなく自分軸で生きると決めたからです。
そんな小さなことですが、自分の気もちを大切にする一歩になったと考えます。
今までの、私なら、自分をさておいて、相手を優先していましたから……
もしも、あなたが人を優先する人だったら、その時は、自分の小さな心の声に耳を傾けてくださいね。
こんな日常のズレずれで、全くかみ合わない家族です。
それでも、26年続いたのは子供がつないだ結束の力かもしれません。
まとめ
大人の反抗期は、今までの時間が止まった心の感情を確認し、改めて自主性や自立を促す物であってほしい。
私の場合は、思春期で立ち止まったままの自分の、本音を確かめる作業をしている感覚です。
本音と建て前、社会人なら当然~すべきなど、沢山の自分への縛りがありますね。
それでも、本音に耳を傾けて自分を大切にできれば、人間関係に疲弊することは、多少は避けられるのではと私は思います。
私は、頼まれると断れない部分があり、自分の本音の無視を続けて本音が分からなくなることがありました。
建前は、適度に使えれば、社会生活をスムーズに過ごせるでしょう。
今までは建前を気にして過ごすことが多かったように思います。
しかし、本音という正直な気持ちって、とても声が小さいように思います。
そして、正直な気持ちが見えないと自分じゃない、やらされている感覚に陥りました。
まるで能面のように、ロボットのように感じるのです。
家族や職場の人間関係を通じて、自分の心を考え感じて少しずつ前を向けたり、下を向いたり、横を向いたり……
いろいろありますが、最近思うのは、等身大の自分でもいいのでは?と感じます。
何が正解かはハッキリとしない部分もありますが、今後も感じたことをブログに残して、人を通しての気づきを大切にしたいと思います。
最後まで読んでいただきありがとうございました。