[子供の時]記憶に残る出来事、自分がその人・出来事を引き寄せるのか?気づき

こんにちは、とびおば管理人です。

50代になっても、最近時々思い出す小学校の時の出来事。

なぜ、知らない人に試される様なことをされたのだろうか?

と、当時を振り返ります。

本日は、過去にヒントがあっても遠回りしてきたが、大切なことに気づいたらその時から変わって楽しく生きることが出来たらいいのではないか!とお伝えします。

小学生の時の、知らない少女に試された出来事

今頃、子供時代に気になった情景を何度も思い出します。

何年経過しても、のどに骨が引っかかったような不快な感じです。

幼稚園の頃から、自分の課題となる感情を周囲の人から見聞きしていました。

: [子供の時]記憶に残る出来事、自分がその人・出来事を引き寄せるのか?気づき

小学生高学年になった頃、祖母の手伝いをして「リヤカー」や「一輪車」を使って米を運んだり、足の悪い祖母を載せて運んだりしていました。

今考えると、小さな体で、自分より大きい祖母でしたので、意外と自分は力持ちだったなと感じます。

ある日、リヤカーを引いている私の目の前に、知らない少女が現れました。(「おや?知らないお姉さん」「手には箱入りの高級なチョコレート持ってる!」)

彼女はおもむろに個包装されたチョコレートを1つ取り出し、紙の包みを外して、チョコレートの中身だけを、私の目の前の路上に、地面にじか置きしました。

私は、その人が「私が目の前でそのチョコレートを拾うのかどうかを試しているのかな??」と頭の中で感じて、素知らぬ顔をして通り過ぎました。

そのあとそのチョコレートはどうしたのか気になり戻ってみると、それは無くなっていました。

恐らくですが彼女が持ち帰ったのでしょう。

その時は、「???」でしたが、深く考えることはなく忘れていました。

しかし、今50代になって、「なぜその子はそんな行動をしたのだろうか?」「何をしたかったのだろうか?」

と考えるようになりました。

こんなことを思い出したのは、エニアグラムを学んだ時に過去の事を思い出したりしたことがきっかけのような気がします。

そのお試しはなぜだったのか?気づかせる為?その後も感情を抑圧?親からの心理的課題の継承なのか?

今まで、その出来事は、その少女の自己肯定感が低いために、同じく自己肯定感の低い私を試して、自分の尊厳を高めたい為の行動ではないか?と考えていました。

しかし、当時の私は、学校で学年関係なく、男子生徒の一部の人から、石を投げられたり、「オエー、○○の妹~」と日常的に否定された言葉を投げかけられていました。

いつも、その行為に対して、最初は多少反発したものの「仕方がない。どうせ、何を言ってもこの人たちは、変わらない」と考えて、無言でいつも無視をしてみて見ぬふりが多かったように記憶しています。

そして、もしかすると相手を軽蔑して見下していたのかもしれません、最近までそんなことに気づけません。

今思えば、イジメてきた人に対して、「姉の悪口を言うな!」と言う本人に怒っても良かったし、石を投げる相手に石を投げ返しても良かった。(クラスも学年も違う男子ですから)

「私の事を知らないくせに汚いというのはやめて謝れ!」ともっと反抗しても良かったと思う。

黙ってやり過ごして、相手にやりたい放題させたのは、自分だったのかもしれない。そこは自分の責任にもなる。

そして、自宅付近でも、知らない女の子に試されるような行為をされ、「なぜそんなことをするのか?」と聞いても良かったと今では思う。

自分が何をされても、あきらめて、ただ下を向いて耐えるというのはおかしいと今では考える。

「自分には、何をしてもいいですよ」と態度で示しているようなものでそれを繰り返されるのは当たり前なのかもしれない。

もしも神様からのお試しなら、自分がされて嫌なことは、はっきりと「いやだ!」と相手に伝えることが自分を守ったり、家族を大切にすることだと伝えたかったのかもしれません。

つまり、「自分はいつも嫌なことをされるのが当たり前だ」という内面が、その少女を通じて「このままでいいのか?」というサインで自分が変わるチャンスだったかもしれない。

惜しくもそれを逃してしまった。

その後も、そんなことに気づかない私は高校になっても、試されることが起きる。

思春期になると、自分の意見を小中学生以上に否定されたり、言えない状況が増強されます。

それはさらに、心が圧迫され、胸が詰まることが増えて行った。

そんなことがあっても、また心に蓋をして、自分の感情を受容していない事に気づけないまま、大人になり結婚。

30代のとき、自分の母がお産の手伝いに来ていた時に、母が過去の話をおもむろに話し始めたことがありました。

「当時仕事をしていた頃の職場の人から、皆がやりたくない仕事を母に押し付けをされて嫌だった話」など苦労話を私に沢山してきました。

当時はなぜそんなこと話すのだろう?と母に何故か尋ねると

「あなたに苦労してほしくないから?」と言われた。

当時は、それを聞いても私には理解ができませんでした。

その後、年を重ね、50代になった時、母の言動が自分の過去の状況と重なり、母も自分と同じく、人から嫌なことをされても、{いや!」と言えず我慢して、高齢になっても心の負の荷物を抱えていることに気づきます。

親子で同じ課題を抱えていました。出来事の点と点がつなり理解できたのは50代になってからでした。

それを世の中では因縁とか業と表現されるものだろうか? 

そして、次のステージでは、自分が主張せず、我慢の繰り返しで、今度は夫婦間のトラブルになります。

その状況になって、自分は離婚できない代わりに、「もう自分の心は1度死んだ」という事にして心にまた蓋をしました。

自分の感情を無視して、生活の安定を望んでいました。

理由は子供のためにという最もらしいものでしたが、それは表面上の事で、実は自分が環境を変えるのを恐れていたことも一つの要因でした。

そうやって、子供のころから、怒りの感情を心の奥底の沼に沈めて、見て見ぬふりを繰り返してきました。

なぜならば、人のせいにして、自分は被害者だから自分を変えなくていいのです。

しかし、何も行動せずに、他人が都合よく変わることはありません。

たとえ環境が変わって人が変わっても、自分内面が変わらない限りは同様のことが一見違ったことのように起こるのです。

目の前に見える、起こることは、自分の内面からか?気づいた時に意識を変えればいい。

過去を振り返ると、大人になってからも相手のせいにしたり、被害者意識で生きると、自分のお節介すら正しい行動をしているような錯覚を起こします。

被害者の顔をして、人にそれを話して、自分の心の負担を軽くして、「自分は間違っていない、周りの人が変われば私は幸せになる」と思い込んできたようです。(痛々しい中年期)

しかし、環境が変わっても自分の心は子供のころからの被害者のスタンスです。

再度人間関係で躓きます。

例え、、相手には直接苦情を言わなくても、端々に態度に現れ、テレパシーのように人に伝わります。

周りの人が、愚痴、不平不満、人の批判、自分が可哀そうだと頻回に私に伝えにきます。

私自身は、マイナスの感情を抑圧しているだけなので、相手と同じような感情を持っています。だから同類を引き寄せるのです。

周りの人は自分の鏡だと言いますが、鏡を拡大して、自分がなぜそうなのか気づくまで繰り返されます。

そして、やっと50代の真ん中を超えたころ、今まで、自分のダメな部分も(良い面でさえ)認めていないことに気づき、ハットします。

自分の長所も欠点も受容し、認める。本を読んで頭では理解していることですが、自分自身の自己肯定感の低さには無頓着だったようです。

幼少期から見聞きした怒りの感情は、自分の心の沼に蓋をしていたがそこにはたくさんの怒りや悲しみが蓄えられていたように感じます。

しかも、母や叔父・祖母など、親族からも継承していた心理的な課題なのかもしれません。、

心の沼に貯めた感情の数々は、解放して自分の感情を自分で受け止め、心を整理していく必要がありました。

心の表面に過去の記憶や感情が浮かんできたとき、一つづつ取り組んでいます。

また、「怒り」は自分を守る感情でもある為、必要な部分もあります。

しかし、単に人を批判したり、自分を被害者にしない方法でお互いを尊重し合い冷静に解決していく必要があります。

また、今まで起こった数々の出来事の中には、私が沢山の人に助けられ感謝する気持ちの不足があったことも否めません。

物事事態を善悪判断してしまうのは、自分の価値観であって、起こったことにマイナスもプラスも両面があることを改めて感じています。

なぜなら、過去の出来事は時間経過の為か違った目線で見られるから自分の受け止め方が変わってくるのです。

偏った見方をして、傷つくのを恐れて、自分の選択肢や行動を自分自身が狭めていれば、それはかなりもったいない時間の使い方をしています。

時間は有限ですからね。どんな人でもそればかりは個人差はあっても平等な事ですね。

まとめ・考察

子供のころからの記憶の中で、よくよく考えてみるとヒントになるような出来事がありました。

幼少のころの環境、いじめ、家族が別居、夫婦や子供の問題、沢山の事が起こりました。これから起こる出来事も人生の中の気づきのヒントになると考えます。

何よりも、自分の過去の経験に引っ張られて、立ち止まることも多々ありました。

若い時程、時間の無駄遣いが大いにある。

そして、一人で自立しているように見えて、一人では生きられず、自分で立つにも、実は沢山の人の協力や思いが一人の人生を支えています。

どういう生き方をすれば自分も周囲の人も、楽しみながら過ごせるのか?

まずは自分の心の基盤を作り元気でいなければ何も始まりません。

私が言う心の基盤とは、自分の良いも悪いもすべて受容することです。自分を自由と保護する気持ちを持つ。

また、自分を主張するなら、同じように周りの人の考えや行動を尊重するのです。

そのうえで今後は、自分の経験を活かして、何が出来るのか。

じっくり考え行動したいです。ただ努力ではなく、楽しみながら人生を歩む。

これが、残された時間の有意義な使い方なのではないでしょうか?

最後まで読んで頂き有難うございました。

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