「お節介」は主観的だと過干渉?相手の心を理解しお役に立てれば親切?親切って?

こんにちは、とびおば管理人です。

昭和の時代からお節介な人はいますよね。例えば、同僚の仕事なのに、勝手に気を利かせて本人に許可なく代わりにやってしまったりとかですね。

私も、もれなく場合によってはお節介をやって地雷を踏んでいました。相手に「なんで?私の仕事だよ!」と怒られました。

ちなみに「頼んでもいないのに勝手にでしゃばること」がお節介なのです。まさに、私はお節介焼きそのもの。相手が喜ぶと勝手に思い込んでの行動です。

このように相手の心を理解せずに自分の勝手な思い込みで行動してしまうのが「余計なお世話=お節介です。」

しかし、違った状況では親切になる場合もあると感じています。

例えば、完全に本人が忘れていることで、期限があってその時に気が付かない時に、しゃしゃり出て

「○○いつまでじゃなかった?」と教えてあげる事などは、本人にとって大事な事の失敗の回避になった場合などです。

そんな時には、「助かったよーありがとう。」になります。

とういことから、状況によって、お節介が親切になる場合もあると私は考えています。

なぜか?それは、本気で相手の為を考えて(どちらも相手の事を考えている)行動している時に親切になる場合もあるからです。

あなたは、お節介と親切の基準をどう考えてますか?

本日はお節介と親切について私の考えをお伝えいたします。

時代の変化と共に意識が変化、なぜお節介(過干渉)は有難迷惑なのか?

これは、昭和の世代から令和にかけての時間の流れと共に価値観が変化していることも原因の一因と考えています。

例えば結婚観に関して、昭和の自分の世代は、30歳過ぎたら行き遅れのように言われ、20代で家庭を持つのが普通の感覚でした。

しかし、現在の平成生まれの自分の子供に聞くと、「結婚?する気ないよ~孫はあきらめて!」20代の二人の子供は口を揃えて言います。

これが現実です。結婚に魅力を感じていないのです。

もう一つ言えば、結婚したから幸せになれるわけじゃないし、自分の仕事を見つけ何とか自分で生活できるようにする。という目標が子供2人にはあります。

世の中の景気が良くなっている実感がないのが根底にあるから?かもしれません。

自分たちの時代のように、独身時代に車を持とうとか恋人とかの以前の問題で、「どうやって生活していこう。」が先のようです。

また、昭和世代はみんなで一緒に目標を達成しよう!とか、他の人と違いがはっきりする程良い印象を持たれない感覚でした。

しかし、現代は、個々の時代、一人一人の個性や生き方を尊重される時代になっています。

例えば、昭和世代のアイドルと現在のアイドルは全く違って見えます。

曲を自分で作って動画配信して、それからTVに出るようになることもあります。

また、日本ではダメでも動画配信がきっかけで世界からデビューする方もいます。

個で発信してから世の中に認められる。という時代になっています。

話がずれましたが、今は、SNSとか動画配信とか世界に向けて誰もが発信できる時代になっています。

逆に言うと意見や歌やダンスやその他自己表現が簡単にできる時代になっている。

なので、わざわざ昭和のようにお節介してくれる人を望む人が少なくなっているのではないだろうか?と感じています。

私個人としては、お節介で助けられたことが過去に沢山ありました。

特に子供が小さい時に、東京の電車の中で、子供を見て、わざわざ後ろから男性が声をかけて席を譲ってくれたり、エレベーターのない駅で若い男性がベビーカーを運んでくれたり、本当に親切にしてもらいました。

これは相手が私たち親子を察して、行動してくれたことです。

また、具合が悪い人が居れば、声を掛けます。これは、相手が望んでいるからではなく、自分が心配になるからやってしまうのですが、ただのお節介ではなく、心底、大丈夫かしらと心から心配しての行動です。

逆に親子関係においては、親が子供を心配するあまり、過干渉になり、子供にあれこれ、頼んでいないのに余計なことを言ったりしたりします。これは、完全にお節介=過干渉です。

このようにお節介の中には、自分の不安を解消するための行動も含まれます。

このようなことから、結果的に人のお役に立てるお節介は、病気の時以外は、こちらの勝手な判断だけでなく、人の気持ちを良く理解したうえで行動した方が、本人も相手も幸せな結果になると感じています。

しかし、相手の気持を察するという事自体が難しいので、お節介を焼くのを躊躇することも時々あります。

主観的な考えや自分の思い込みがないかを確認する必要があるようです。

逆に深く考えれば考えるほど、お節介しずらくなるのですね。

まとめ・考察

今までお節介は自分の欠点だと感じていました。

けれども、ブログの師匠の千聖さんのそのまた師匠の竹川さんが、「お節介がいい!」と真逆の事を言われるのです。

「えっと~お節介て悪じゃないの?」と自分では半信半疑です。

そんな風に肯定されたのは初めてです。

しかし、これまで生きてきて、自分がお節介をしてもらったことで確かに助けられたことも多々あるのです。

しかし、注意しなければならないのは、独りよがりの「~ねばならない」という正義感という名のこだわりだったり……

また、自分が不安になって心配を解消したいがための、余計なしゃしゃり出た行動だった場合は、相手の為にはならないので注意が必要です。

勝手にお世話焼いて、本人が望まないことをやるのがお節介で、本人が望んでいれば、でしゃばってもお節介にはならないというなかなか、グレーな状態です。

やじろべえのように、相手の事を考えて(自分の心配)過干渉になってコントロールしようとするのがお節介、相手の事だけを思って気持ちに寄り添って、役に立とうとすることが親切ではないだろうか。

やじろべえの中心軸が自分に偏よらないように気を付けて行動することが肝心だと考えます。

とはいえ、ついつい自分の過去と同じような思いをしている人を見ると声をかけたくなります。

余計なお世話をして、結果的に足を引っ張れば(人の成長を邪魔する)それこそお節介焼きになる。

同じような状況だとしても、自分と全く同じではない。

結局本人がベストだと思う選択をするのが正解なのです。

最後まで読んでいただき有難うございました。

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