「親の命日になると」、20年経っても亡くなった時の景色を思い出す。

こんにちは、とびおば管理人です。

本日で父が亡くなって20年が経過しました。

以前は、仕事中に高齢の男性患者さんをみると、「父が生きていた

ら今何歳くらいかな~」とよく考えていました。

もし、生きていたら90代です!

今日は、身内の命日に関して、思うことをお話します。

「いつまでもあると思うな親と…‥」という言葉は本当だった。

20年前の今日は、父が病院で亡くなる前に、心電図の波形がVT

(心臓が止まる前の危険な波形)になったことを思い出す。

呼吸が止まるまで、家族が順番に父の手を握っていた。

看取りなので何もしないと分かっていても、呼吸が止まる瞬間に

ナースステーションに駆け寄り、「呼吸止まります!」

とつい詰所にいるナースに声をかけた。

声をかけても、ただ死亡確認のために主治医に連絡するだけの事

なのは、自分も十分理解していた。

父はがんの末期、

発見された時は末期まで進行していて、余命は3カ月だったと聞いて

いる。

私は、県外で生活しており、年に一度帰省する程度だった。

本人が耳近くのリンパ腺が腫れを気にして、耳鼻科受診して

「悪性黒色腫」(メラノーマ)と診断され

医師の予想通り3カ月で旅立った。

本人には告知せず、なので、悟られないように 私は、最後の時

間をほとんど一緒に過ごせないまま、亡くなる1週間前に呼ばれ

病院で付き添った。

父は、入院前も、いつも通り米を育て、米の収穫前に亡くなった

病気が判明したのは米を育て始めたころだったのだろう。

たった一人で米を作り続けていた父だった。

送料もかかるのに、私に、米を送ってくれていた。

今では感謝しかない。

いろいろとあったが、父の娘で良かったと今では感じている。

そう思えるのは、時間の経過があるからかもしれない。

私の親孝行は、結婚式で父とバージンロードを歩いたことと

孫の顔を見せられただけだった。

親が亡くなる心細さを感じるのは、やはり親を失った人にし分か

事なのだと理解もした。

亡くなって気づいたことは、その存在だけで、人生の中で雨が降ったときに傘のような存在で、自分に安心感を与えてくれていた感じがする。

まして、時間が過ぎても、じんわりと悲しい気持ちになるのはな

ぜだろう?

やはり自分が十分に父にやれてなかったことが沢山あるからかもしれない。

がんの発生個所を検査するために、解剖を促され承諾、

原発は、口の中上顎の粘膜からだった。

悪性黒色腫で、爪や足の裏(約30%)やほくろが有名だが

粘膜からの発症は、全体の約15%なのだそう。

亡くなった後に、看護師が処置をして、病衣から家族が持参した服を着せるのですが。

母親が準備した服が、過去に自分が父にプレゼントした甚平だった。

あれ?と秋なのに甚平?と今までの自分の仕事での経験上、一般的な洋服が多いが(たまに着物だったりもする)、甚平を見たのは初めてだった。

母なりの私に対する気遣いかもしれないが、私は、こんな秋になって甚平は父が亡くなったとはいえ肌寒そうだな。と感じていた。

今となっては印象的な出来事の一つになっている。

今度母に面会した時に、なぜ甚平を着せたかったのか聞いてみたい。

後悔しないために今を大切に生きる

人の寿命はわからない。父は、平均寿命までは生きれなかった。

私自身も他人ごとではない。

いつまで生きれるのかは分からない。

分からないからこそ、呑気に生きていられるとも思う。

当たり前すぎる事なのだが、ついつい元気で日常を生活していると

周りの出来事や相手に翻弄され、感謝すべきことを忘れてしま

う。

眠って目が覚めることが当たり前なのだが、それがかなわない場

合もある。

家族に「おはよう」と言えるのは幸せなことだと思う。

なので、会いたい人がいれば、会いに行き、やりたいことはでき

る限り行動することが肝心なのかもしれない。

自分の残された時間は、砂時計のようにさらさらと流れていく。

悔いが残らないように精いっぱい生きることが、亡くなった人の

供養になると考えたい。後は、感謝を忘れない事だとおもう。

まとめ

親の命日に心にじんわり染み入るものがありました。

また、感謝の気持ちを持ちながら、自分らしく精一杯生きること

を再確認しました。

あなたも、自分の人生を謳歌してくださいね。

また、身近な人との思いで作りを楽しんでください。

今日も最後まで読んでいただき有難うございました。

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