今までの過去を振り返ると、1つの感情と向き合うことになった。

50代も中盤になり、今後の生き方を考えるようになった。

そこで、今までの心を見つめ直そうと思い、最近自分の過去を幼少期から振り返り始めてみた。

そして、自分が今まで幼少期から、一番自他ともに関わった感情に気づいてハットする。

それは、物心ついてから親族や社会人になっても、人間関係で目にする多数(いや自分が注目してしまう)の感情。

「怒り」だった。これが長年かけても、過去を振り返ると心の底から湧き上がってくる。

まだ、過去の私は、自分で自分の感情を消化できていなかった。

これを解消するには、日記で、その人に向けて、感情を書きだすことだった。

日記を書くようになって、自分の心の感情を整理することになり、その日のうちに向き合える。

自分の過去の振り返りと認識

振り返りと言っても大げさなことはしていない。

ただただ、今まで幼少期からの喜怒哀楽の出来事をノートに書きだして、それをなぜそう思ったのか?どうしたかったのか?

ただ思い出しながら、自分の感情の記憶にも触れる作業だった。

過去に気づかなかった今だからこその気づきなどだ。

自分しか読めない汚い字で時には泣きながら書き進めていった。

もちろん内容は自分しか読まないので、どんな言葉もストレートに書いていく。

まるで小さな子供のように遠慮なくそのままの自分で、

もちろん楽しかったことや嬉しかったことは問題なく終える。

何が自分が好きで何に心をわくわくさせていたのか?

など心穏やかになる。

逆に見たくない感情の沼に触れるときには。

数十年経過しても、その時の感情が鮮やかによみがえる。

時には涙が出てしまう。

悔しい思いがよみがえったり、悲しい気持ちがよみがえったり、心の感情の運動会のように 揺れ動く。

ものすごく疲れてしまう作業でもあった。

時間と共に感情は癒されて消失しているのではないだろうか?

と考えていた私だったが、特につらい気持ちの時と一緒に存在していた感情が次々とよみがえる。

なぜ今更感情がよみがえってしまうのだろう?。

その感情が再現されるたびに自分のたんこぶのような痛みのある感情が。

正直その当時は、何があってもぐっとこらえることが多かった。相手が酷い行動をしても、我慢。

そして、しばらくすると、自分の感情は穏やかになる。忘れたつもりになる。

でも、忘れたと思っていた感情は自分の中に確かに残っている。

感情記憶とは、感情+記憶で一緒に記憶され、たとえ認知症になったとしても、認識できて人生の最後まで維持される。

振り返ると今までの人生の課題に気づく

しかし、自分の振り返りで、人生の出来事を追いかけていくと幼少期からのある課題が見つかった。

それは「怒り」についての課題だった。

幼少期においても親族の行動が、怒りに満ちていた。

自分の叔父は、二人とも普段はとても大人しい人たち、酒を飲むと人格が豹変した。

酒を飲んでは、実家の自分の家に来て、子供が聞きたくない内容の話を、祖母にこぼして帰る。

子供ながらに自分の気持ちが辛くて祖母に分かってほしいと来ているのだと感じていた。

数か月前も職場の上司が怒りを表出する場面が多かった。

その感情の吐き出し方は、他のスタッフにその人のことを、部下に聞いてもらう方法だった。

それを聞かされる人は、非常につらい立場だ。

私の周りでは、人に話して自分の感情を出す方もいた。

そんな行動を目にするたびに、自分はどう行動すべきが良いのか考えた。

「怒りという感情をどう取り扱うのか?」

「怒りをどう受け止めてどう向き合うのか?」

など、怒りを表現する人が周囲に多いのは、なぜなのか?

と考えるようになりました。

では、怒りとは何者?どう対処するのがいいのか?

過去に、市民講座で「アンガーマネジメント」という講座を、精神科医の先生から受講したことがある。

その時に印象に残ったことは、怒りとは自分や大切な人を守る自然な感情だという事。

自然な感情でそれを爆発して人を傷つけたり、逆に押し込んで我慢して過ごしたり。

感情の後の行動によって人間関係を悪くしたり逆により良くしたりは自分の行動次第だと捉えている。

講座で学んだコントロールの方法は、

数を1から6まで数えて、その間に、少し冷静になり、自分の行動を決定する。

一番おすすめなのは、その場から離れてトイレなどにこもって自分の安全安心を得ることかもしれない。

確かに、後悔しない行動をとるために、対策としては良いと思った。

しかし、自分の感情は、どう処理するのか?

仕事で、そのままの素直な感情を表現したり、注意出来ない場合もかなりある。

そういえば、過去の自分は、今まで、自分を感情を無視したり、相手を優先していた。

思春期の時に、そうやって丸くその場を収めなければ、嫌な思いをすると考える癖がついているからだった。

何か緊急事態があれば、闘うか・逃げるか・固まるかのどれかを選ぶと思う。

しかし、自分の場合は、固まる。貝のように口を閉じる。我慢するだった。

それを繰り返した結果、長年の怒りの感情を消化することなく残す。

それが、何かあるたびに、過去の感情がよみがえる。

一番問題なのは、感情が溜まり続けると体調が悪くなった。

腰痛や首の痛み、腕のしぴれなど、心労がかかると特に痛みが強くなる感覚だった。

では、ずっと心の沼に貯めずに対処する方法はないのか?

と考えると、今の自分には、あった。

日記だ!日記の中で、その当時の人に向けて、自分が思った感情や、つらかったこと、わかってほしかったこと、どうしてほしかったか?

思いのたけをすべて書いて出し尽くすことをしていた

それを行うようになってから、自分の心の安定が以前よりよくなり。

特に人間関係で悩んだこともすべてその場で感情を表現して、落ち着く。

感情をため込まないというメリットだけではない。

書いていくうちに、出来事の捉え方を、違った目線で違った捉え方や発想が湧いてくる。

一方向で物事をとらえるのではなく、出来れば2方向から物事を見つめたり考えたりする。

しかも、人に話したり、専門家に話す、時間や場所も必要ない。自分の都合のよい時に、向き合い。考え、受け止める。

これまで、メリットばかりを強調してきたが、逆にデメリットもある。

死角があるという事だった。一人の考えや経験では客観視できないこともある。

自分には見えない場所もあるし、自分にも人にも見えない場所も存在する。

そういう意味では、信頼できる人にある程度の考えをまとめた上で、どう考えるか?もっと違った考え方はないか?

人に聞いてみるのもより良い方向に向かうヒントになるかもしれない。

まとめ

最初になぜ「怒り」を表現する人たちが目についたのか?

その答えは、自分がその感情に気づいて、自分の感情を正しく取り扱う方法を知る為だったのかもしれない。

今回の自分の課題となる感情に気づけたのは、本当に幸運だった。

昔の自分ではできなかったことで、気づかなかったことでもあった。

それほど、人間の心が少し成長するには、人との人間関係は大切なのかもしれない。

一人ぼっっちでいれば、摩擦もなく自由で気楽かもしれないとよく考えたことがあった。

しかし、そうしていれば、今の自分ではなかったかもしれないのだ。

人との関係はややこしいこともあるが、逆にそれがあるから面白いのかもしれない。

もしも、生まれる前に自分で人生の脚本を書いていたら、「どれだけ時間のかかる面倒なシナリオなのだろう!」とふと感じた。

もしかすると、自分自身が一番ややこしい人間なのかもしれない。

それでも、今生きているだけで幸せなのかもしれないと感じる今日のこの時だった。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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